第3回 軍制学者の憲法史――藤田嗣雄『明治憲法論』

一 著者について

 藤田嗣雄(1885-1967)という名前を聞いたことがある読者は、とりわけ学生の皆さんにはそう多くはないかもしれない。そこで、まず最初に、画家・藤田嗣治の兄でもある彼の生涯を振り返っておこう*1

 明治18(1885)年に東京に生まれた藤田は、明治43(1910)年、東京帝国大学法科大学を卒業すると朝鮮総督府試補に任ぜられ、大正6(1917)年まで京城(現在のソウル)で役人生活を送る。ところが、同年陸軍省参事官に任ぜられ、陸軍省の一文官として軍事行政に関する法案の起草や諸制度の調査を行っているうち、次第に軍制の学術的研究を志すようになったようである。そこで藤田は、昭和9(1934)年に陸軍省を退官すると、翌年に学位請求論文「欧米の軍制に関する研究」を東京帝大法学部に提出、同12(1937)年に法学博士の学位を授与されたのであるが、この論文は文部当局から発表を差し止められてしまった。その理由として三浦裕史は、同論文が「第一次大戦による統帥権独立の決定的衰退を明らかにしたこと」・「統帥権独立主義に匹敵ないし優越する観念として、立憲主義とこれに基づく文権優越主義を提示したこと」・「統帥権独立制が世界の趨勢に反すると指摘したこと」という三点を挙げている。このような、統帥権の独立を批判して「軍隊の立憲化」を唱えるという姿勢は、その後も藤田の生涯を一貫することになった。

 学位取得後の藤田は財団法人日本拓殖協会に籍を置く傍ら、昭和15(1940)年には『独逸軍制概要』(未刊)を執筆し、また同18(1943)年には「憲法史研究会」に入会して「『軍令』の成立過程」という題目で講演を行うなど、研究活動を続けていた。そして終戦後の同23(1948)年、『新憲法論――比較憲法学的考察』(大日本雄弁会講談社)と『明治憲法論――旧憲法から新憲法へ』(朝倉書店、以下「本書」と呼ぶ)という二冊の著書を初めて出版するに至る。このとき藤田は、63歳であった。

 以上のような本書公刊までの経緯からも分かるように、当時の憲法学界において、藤田の名はあまり知られていなかったようである。もちろん、次のように彼を高く評価する者もいたが、これはおそらく例外的だったのではないだろうか。

藤田博士の名は、わが憲法学界において、目新しい名前のように見えるけれども、それは同博士が今まで著書を世に問われたことがなく、学界において表面的に華々しく活躍を示されていなかったためである。しかしながら、永年極めて地味にわが憲政史、特に軍制史、統帥権の問題等について研究を続けられ、又比較憲法学の分野においても極めて盖博〔原文ママ〕な知識をもって居られる同博士はわが憲法学界において眞に貴重な存在であったのであり、われわれはかねてから同博士がわれわれのために、その永年の研究の成果を発表せられることを望んでいたのであった*2

 ところで、以上のような研究遍歴に鑑みるならば、我々は藤田を「軍制学者」ないし「軍制史家」と呼ぶべきであるようにも思われる。もっとも彼は、昭和25(1950)年に国立国会図書館専門調査員に任じられた後、愛知大学や明治大学で憲法を講じ、さらに同32(1957)年から同41(1966)年まで上智大学法学部教授として憲法の講義を担当していた*3。そしてこの間の業績も、憲法史を含む憲法学に関するものが多いという印象を受ける*4。こうして藤田は、戦後、「憲法学者として名声を得た」*5のである。

 にもかかわらず藤田が――とりわけ憲法学界において――さほど注目されてこなかったとすれば、その原因の一端は、彼が憲法学界における通説とは異なる見解を打ち出していたことにあるのかもしれない。例えば、「日本国は主権国として自衛の手段を有しなければならない。これがために軍隊の再建を要し、憲法の改正が必要となされるに至るであろう」*6という、再軍備論がそうである。しかし、それ以上に異端的な見解としては、独特の自然法論に基づく日本国憲法「再建」論が挙げられよう。すなわち、「日本国憲法は、その制定過程が全く他律的に規制されており」、「明治憲法からは、決してその『正当性』(Legalität)を成立せしめることができない」ため、「日本国民が憲法制定権者として、政治的な基本決定をなし、日本国憲法が再建されるべく『制定』(中略)されなければならない」というのである*7。そのような結論もさることながら、そこに至る「論旨が極めて深淵、難解である」*8こととも相まって、この議論は学界からはまともに相手にされなかったようである。

 しかし、このことは彼の憲法史研究の意義を否定する理由にはならないのであって、一見「地味」ではあるが含蓄に富んだ本書のような作品こそ味読されるべきであろう。憲法史、とりわけ明治憲法史については、学部でも法科大学院でもほとんど取り扱われないのではないかと思われるので、優れた研究を手がかりに勉強されることをお勧めすべく、本書をご紹介する次第である。

二 本書の内容*9

1.立憲制君主国憲法

 本書の課題については、「序」において次のように述べられている。

明治憲法が昭和20年8月に崩壊し、次いで新憲法が制定されなければならなかったのは、そもそも何にもとづくものであろうか。本著においてはその一端を闡明〔せんめい〕すべく、明治憲法を歴史的、政治的ではなく、主として法律的に検討することによってそれが企図されている。

 そのために本書は、「第1章 明治憲法の制定」・「第2章 明治憲法の現実」・「第3章 明治憲法の崩壊」として、それぞれの局面における明治憲法の法律的な検討が行われるのであるが、その際に重要なことは、明治憲法を「立憲制君主国憲法」として捉えるという視点が貫かれている点である。

 では、「立憲制君主国憲法」とは何か。

立憲的君主制は歴史的に見て絶対的君主制から生じたものである。君主はあらゆる国権の基礎及び淵源であり、その法継続性の結果として国家人格の化身であり、しかも国権の行使が制限されている。この制限は君主よりも上位の権力によってなされないで、憲法的な自己制限である。憲法典はこの権原を絶対的立法者としての君主の意思に求め、今後君主は憲法典に服従しこれによって国権が行使されねばならない。(1頁*10

 ここで本書は、明治憲法の制定に関して重大な影響を与えたプロイセン憲法の検討に入る。なぜなら、プロイセン憲法もそのような立憲制君主国憲法だったからである。この点、「プロイセン憲法の原則は王支配であって、国民代表の影響及び協力権はこの政治的原則の単なる修正に過ぎなかった」。たしかに、立法および予算の決定における国民代表の協力等による王権への制限はあったが、「それにも拘わらず王権は自由であり且つ無制限であって、王支配の原則があらゆる成文規定の上に存し」ており、「とくに国王の統帥権の独立は独立的な王権の原則に関する本質的な安全装置であって、ここに王支配の決定的憲法保障が存した」(4頁)。このようにして、「プロイセンでは国防秩序を以て全秩序の核心点となすことに成功した」(6頁)のである。

 以上のように、立憲制君主国憲法であるプロイセンにおいては国防秩序と市民的秩序との関係が問題になっていた*11ということを前提として、以下のような明治憲法論が展開されることになる。

2.絶対主義と立憲主義

 慶應3年12月9日(1868年1月3日)の政変(「王政復古の大号令」)によって樹立された明治新政府は、一方では「天皇親政の立前〔原文ママ〕」を他方では「公議輿論尊重の方針」を採ったところ、「この理念は立憲制君主国憲法の指導理念であって、たとえそれが早期であったとしても、明治憲法への根本的な政治的決定がここに予告的になされたものとも解し得るであろう」(16-17頁)。その後、名実ともに藩閥政府としての性格を鮮明にした政府が憲法制定への動きを見せる中で明治14年の政変が勃発、その際に発された「国会開設ノ勅諭」において、「明治天皇は憲法制定権者として『立憲制君主国憲法』を制定すべく、前以ての根本的な憲法決定がなされ」、その後の憲法制定過程においては「この決定の基礎及び範囲においてのみ規範化がなされなければならなかった」(27頁)。

 それでは、そのようにして制定された明治憲法はどのような性格を有していたのだろうか。

明治憲法は憲法制定権者としての天皇が立憲制君主政に関する決定を包含した(第4条*12)。第4条において絶対主義と立憲主義が対立せしめられてい、この絶対主義と立憲主義が前者の優位の下に妥協せしめられていた。(中略)立憲主義は自由主義及び民主主義を以て基礎づけられてい、明治憲法においては、天皇が憲法制定権者であり、それで憲法的には把握されず、原則として無制限な権力を有してい、憲法は天皇の権力の法治国的制限を包含した。議会は天皇との協同的機関ではなく、単に諮詢機関であった。(93-94頁)

 とはいえ、周知のとおり「明治憲法の現実」としては超然内閣から政党内閣へと展開を遂げたのであるが、昭和7(1932)年の五・一五事件以後は挙国一致内閣が組織されるようになる。これを要するに、「明治憲法の下における政治の実際は、立憲主義の発展の世界史的方向に従って漸次議会制君主政に移行せんとしつつあった。しかし幾多の原因はあったけれども、主として明治憲法に内在していた絶対主義によって、その進展は阻まれ、遂にポツダム宣言の受諾によって大きな飛躍をなすに至った」(170頁)のである。

3.統帥と国務

(1)統帥権独立の成立

 ところで、そのような「明治憲法における絶対主義及び立憲主義の対立を先鋭化せしめたものは、統帥権の独立であった」(95頁)。冒頭のプロイセン憲法に関する説明が示唆するように、明治憲法における絶対主義と立憲主義がどのように作用するのかは統帥と国務との関係にかかっていたから、統帥権の独立が認められる以上、「明治憲法の下においては軍制は立憲主義に服従せしめられなかった」(59頁)。換言すれば、「明治憲法における絶対主義は、統帥権の独立において最も明確に表現されていた」(115頁)ということになる。

 それでは、統帥権の独立はどのような経緯で定められたのであろうか。本書によれば、西南戦争を契機として参謀本部が陸軍省から分離され、統帥権が太政官から独立させられた政治的理由は、次のとおりである。

参謀本部の独立―統帥権の独立は明治14年の国会開設の決定と同一の政治的理念にもとづいてなされたものであり、まず第一に国会開設運動及び政党の樹立に対して、絶対制的勢力であり且つ当時未だ強大ではなかった軍隊を防衛せんとするとともに、第二には、明治初年以来政治的指導者としての地位にあった藩閥の人々によって、次々にひき起こされ、明治10年の西南の乱において頂点に達した政治的闘争への軍隊の隔離をなすべく、軍隊の非政治化及び中立化がなされたものと解すべきであろう。ここに統帥権は当時存在してはいなかった議会に対してではなく、政治の中心であった太政官に対して独立せしめられた。(67頁)

 このような「統帥権の独立によって、軍事憲法と政治憲法の対立、わが国の二世代後における悲劇的運命への、歴史的転回点がここに出現せしめられるに至った」(68頁)ことは後述のとおりであるが、その理由としては天皇親政がフィクションにとどまったことが大きい。すなわち、「明治憲法における絶対主義及び立憲主義の対立が調和されるか又はされないかは、一に天皇の親政にかかっていた」ところ、「明治憲法の現実においては、天皇は閣議には親臨されず、統帥機構も統帥権の親裁〔も?〕人的指導への展開性を有しなかった」のである。とはいえ、明治初期には藩閥や元老といった同質的な人々が「天皇の権威の下に立憲主義と絶対主義、国務と統帥の対立の先鋭化を避けることに成功していた」のであるが、大正以降は元老が次々に「凋落」し、政治憲法と軍事憲法との一致は遂に成功しなかった(96-99頁)。

(2)統帥権独立の展開

 もっとも、統帥権の独立は明治憲法に明文で規定されていたわけではなく、「統帥と国務が法律的に対立せしめられたのは、明治40年軍令第一号の制定に始まる」(117頁)。軍令第一号とは、第1条で「陸海軍ノ統帥ニ関シ勅定ヲ経タル規程ハ之ヲ軍令トス」とした上で、第2条で「軍令ニシテ公示ヲ要スルモノニハ上諭ヲ附シ親署ノ後御璽ヲ鈐シ主任ノ陸軍大臣海軍大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス」と定めるものであるが、「軍部は軍令の形式の制定によって、内閣とは離れて、公然独立して統帥に関する事項に関しては帷幄〔いあく〕上奏によって允裁を仰ぎ、軍令を制定し得ることとな」り、「わが統帥権の発展において、形式的にはここにその頂点が見出される」というのが本書の評価である(120頁)。実際のところ、「国務と統帥の分界設定は法律的になすことができず、政治的にのみなされ得るから、統帥権の独立が承認された限り、統帥の範囲が絶対的、君主主義的に定められ、その範囲が益々増大する傾向の下にあったことはまことに当然であ」った(199-200頁)。

 そして、「明治憲法の崩壊」が訪れる。その際、「太平洋戦争への展開の転回点」(210頁)となったのが、昭和5(1930)年の統帥権干犯問題である。その後は、五・一五事件や天皇機関説事件、二・二六事件などを経て「議会の国政上における重要性が愈々低下し軍部及び官僚が愈々その指導的地位を確保するに至」り(214頁)、第二次近衛内閣の下で「統帥の優位の下に国務との一元化をなす」ために大政翼賛運動が展開されて議会勢力が最後のとどめを刺され(218-219頁)、第三次近衛内閣の下で行われた日米交渉が陸軍の主張によって頓挫するという形で「明治憲法に内在していた割目が現出し、遂に国家を破局に導くに至った」(221-222頁)。すなわち、太平洋戦争に突入した後でさえ「統帥権の独立の原則が厳守され、遂に『統帥と国務の一体的運営』は勿論、『政戦両略の一致』、『統帥と国務の吻合』は何等達成されなかった」のである(236-237頁)。

政治憲法と軍事憲法の対立は今次の敗戦を決定したところの唯一の原因では勿論なかったが、憲法的見地からしては最も重要視されなければならないものである。(238頁)

 まことに、軍制学者・藤田の面目躍如と言えよう。

三 その後の研究

1.紹介

 しかし、藤田の明治憲法史研究は本書によって集大成されたわけではなく、本書公刊後もさらなる進展を見せることになる。以下ではその一端を概観しておきたいと思うのであるが、とはいえそれらの論旨もまた「深淵」・「難解」を極めており、議論の全体像を要領よくまとめることは筆者の手に余ると言わざるを得ない。そこでここでは、筆者が理解可能な限度において藤田の議論を紹介するにとどめることを、予めご了承願いたい*13

 さて、明治憲法は制定の時点においてすでに二元性を内在させていた。すなわち、明治憲法はイデオロギーとしての「国体」(第1条*14)を具体化すべくその統治機構として「立憲君主制」(第4条)を採用したのであるが、前者が想定する国家形態が「Despot的又は擬制的な絶対制君主国」であるのに対し、後者におけるそれは「いわゆる君主主義的な国家形態」であった。このように、明治憲法における「国体」と「制度」との対立は二者択一的であり、その両者の調整にも失敗したために、「不磨ノ大典」たらんとした明治憲法は崩壊への道を辿った――これが藤田による大まかなストーリーのようである。

 そうであるとすれば、なぜその両者の調整に失敗したのかが問題となるが、ここでポイントとなるのが「権威」と「権力」との区別のようである。すなわち、わが国の歴史を顧みると、その現実の支配は摂関政治、院政および幕府政治と経過してきたが、それらは常に天皇の「権威」に基づいて正当化されてきた。したがってここでは「不親政」が原則であり、明治維新以降も天皇の親裁は多分に「擬制的」であった。そして、例えば教育勅語や国体明徴運動などによって天皇の「権威」が強化される一方*15、元老の「凋落」に伴って現実の支配者は統一的な支配力を発揮することができず、ために「権威」と「権力」との合一が果たせずに明治憲法は崩壊に至った――ということであるように思われる。

2.背景

 あまり自信はないが、藤田の議論の骨子はおそらく以上のようなものではないかと思われる。仮にそうであったとして、ここでの問題はかかる議論の当否ではなく、藤田がこのような憲法史を描くようになった背景であろう。すなわちそこには、古代史にまで遡る膨大な天皇制研究があったのであり、その「ほんの一部分」を公にしたのが彼の『天皇の起源――法社会学的考察』(成文堂、1960年)であった。もとより本稿の直接の対象はこの著作ではないので、ここでは佐藤功による簡にして要を得た次の文章を引用することを以て、同書の紹介に代えさせて頂きたい。

その序によれば、本書は著者の長年にわたる天皇に関する厖大な研究の一部分であるとのことであるが、天皇制の歴史的存在の基盤に関するものである。大部分、古代天皇制の歴史研究であり、率直にいって、私〔=佐藤〕には批判の能力がない。ただ、天皇制支配の形成過程と、そこにおける権威と権力の二元性を「場序(Ortung)と支配の形成」、「支配の正当性」において理論的に考察した後、天皇制存立の発端を、歴史的に、「地母神の礼拝と天石窟の変」、「ヤマト国家の成立」、「日神の礼拝と天照大神の成立」の各章で探り、次に「日本国家の成立」を、デスポット制の樹立、大化改新、天皇の神格化などで論ずる。ただその後、直ちに、20世紀後半における君主制と天皇制とに移り、日本国憲法における天皇制の特色とその将来の展望で結ばれるのであるが、この中間の部分が割愛されているのであろうことが惜しまれる。前に述べたように、古代史研究の部分は私の理解の能力を超えるのであるが、いわば前人未到の分野が法社会学的方法によって始めて〔原文ママ〕開拓されたものであることを感ぜさせられる。憲法の分野からすれば、天皇制支配における権威的要素と権力的要素との二元性がいかなる憲法的表現において現われるかが問題となるのであろう。本書の終わりの部分で日本国憲法下の天皇における「統合」的契機について論ぜられている点がそこで重要な意味をもち、本書はその二元性の成立の端緒を明らかにしたものであろう*16。 

 このように、最晩年の藤田は「軍制史」という禁欲から解き放たれ、「極めて雄大な構想による日本憲法史」*17を描くようになっていった。その時、彼の研究がなおかつての生彩を保っていたかについては――できる限り好意的に論評しようという佐藤の筆致が端無くも浮き彫りにするように――、率直に言って評価が困難である。その意味において、彼はやはり「軍制学者」だったのだ、と言えるかもしれない。

 

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 【編集部よりお知らせ】
 次回(第4回)更新は、7月29日(金)を予定しています。
 どうぞよろしくお願いいたします。
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*1:以下の記述は、三浦裕史「解題」藤田嗣雄『欧米の軍制に関する研究』(信山社、1991年)633頁以下に依拠している。

*2:佐藤功「紹介」国家学会雑誌62巻10号(1948年)40頁。佐藤も「憲法史研究会」のメンバーであったため、そこで藤田を知ったのであろう。なお、本稿では引用に際して一部の表記を改めている。

*3:参照、青柳文雄「故藤田嗣雄博士を悼む」上智法学論集11巻1号(1967年)1頁。

*4:参照、「故藤田嗣雄博士著作目録」上智法学論集11巻1号(1967年)243頁以下。

*5:武藤真也子「文献紹介」東欧史研究21号(1999年)38頁。藤田嗣雄「書評」ソフィア7巻4号(1958年)105頁も、自分のことを「憲法を専攻する筆者」と書いている。

*6:藤田嗣雄『軍隊と自由』(河出書房、1953年)序1-2頁。同書に対して、おそらく立場を異にするであろう佐藤功「学界展望」公法研究9号(1953年)126頁は、しかし高い評価を与えている。

*7:藤田嗣雄「日本国憲法の妥当性」上智法学論集6巻2号(1962年)38頁、同「自然法と日本国憲法の再建」上智法学論集5巻2号(1961年)141頁。

*8:佐藤功「学界展望」公法研究25号(1963年)219頁。これは、相当気を遣った表現であろう。

*9:なお、藤田・前掲『新憲法論』3頁以下は本書のダイジェスト版という趣であるため、そちらも参照されたい。

*10:以下、本文中の頁数は全て本書からの引用である。

*11:参照、石川健治「軍隊と憲法」水島朝穂編『立憲的ダイナミズム』(岩波書店、2014年)115頁以下。

*12:「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」。

*13:以下の記述は、藤田嗣雄「明治憲法におけるSeinとSollen」上智法学論集1巻1号(1957年)2頁以下、同「明治憲法 序説」上智法学論集8巻1号(1964年)69頁以下による。

*14:「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」。

*15:参照、藤田嗣雄「明治憲法における天皇の権威」上智法学論集7巻1=2号(1963年)12頁以下。

*16:佐藤功「学界展望」公法研究23号(1961年)219頁。

*17:佐藤功「学界展望」公法研究19号(1958年)170頁。

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