読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

第2回 北からの平和――深瀬忠一『恵庭裁判における平和憲法の弁証』

北からの平和――深瀬忠一『恵庭裁判における平和憲法の弁証』*1

一 はじめに

昨年〔=1962年〕12月、自衛隊島松演習場において大口径砲実弾射撃を阻止しようとして電話線を切断した牧場経営の二兄弟が、3月7日札幌地裁に起訴された。適用法規は自衛隊法121条・防衛の用に供する物の損壊罪であり、刑法の器物損壊罪よりも重罰規定である……。(3頁*2

  昭和38年3月8日の北海道新聞朝刊第三面に掲載されたこの記事が、一人の憲法学者の運命を大きく変えることになる。

恵庭事件を憲法裁判にした仕掛人は、笹川紀勝さん、彦坂〔敏尚〕さん、深瀬なんです。笹川君が北海道新聞の記事に気づき、深瀬が大変な憲法事件だと気づき、彦坂弁護士と相談したんです。これは憲法裁判で争わなければ平和憲法が死文化し、かつ平和的人権がだめになる、骨抜きになる、この危機を日本国民のために、野崎兄弟を守ることを通じて乗り切らなくてはならないと、自ら言い出した責任でやらざるを得なくなった。その意味では消極的ではありますが、やらざるを得なくなった以上とことんやるという決意で始めたために、予定外の一連の平和主義研究や実践に没入してしまったわけです*3

 処女論文である「フランス憲法史における条約と国内法」(北大法学論集7巻2号~8巻1・2号〔1956~57年〕)をはじめとする重厚なフランス憲法研究や、内閣の解散権に対する「習律上の制約」というコンセプトを打ち出した不朽の古典である「衆議院の解散」(宮沢俊義先生還暦記念『日本国憲法体系(4) 統治の機構Ⅰ』〔有斐閣、1962年〕)のような議会制研究を次々と発表していた深瀬忠一(1927~2015)が、従来の研究とは関わりがないように見える一本の論考を『世界』昭和38年9月号*4に発表したのは、このような経緯によるものであった。

 北海道の一隅で起こった一小刑事事件は、しかしこの論考が朝日新聞の論壇時評で取り上げられた*5こともあり、一躍全国の知識人たちの関心を集めることになる。もちろん憲法学界もその例に漏れず、とりわけ、1965年に発足した全国憲法研究会*6の第一回研究集会(同年10月18日)ではこの事件に「最も直接的でアキュートな関心が抱かれ」*7ていたのであり、その模様を収めた全国憲法研究会編『憲法第九条の総合的研究』(法律時報38巻2号〔1966年〕)は「弁護人団に活用されたことはもちろん、裁判官にもよく読まれたようである」(214頁)。こうして「島松演習場事件」は「恵庭事件」となり、判決が下された昭和42年3月29日には全国紙の夕刊一面で報じられるほどの一大憲法事件へと発展していった。

 他方、かかる事態に「自由な言論の価値と実際的な効果との大きさを痛感」(13頁)した深瀬の研究領域もまた、この論考をきっかけに大きく変わることになる。もちろんフランス憲法研究やフランス憲法学界との交流はその後も精力的に継続され、とりわけ樋口陽一との共著であるLe constitutionnalisme et ses problèmes au Japon, 1984 は、現在まで高く評価されている。しかし、彼の主著はやはり「深瀬憲法学の精華を示す」*8とも評される『戦争放棄と平和的生存権』(岩波書店、1987年)であり、それを筆頭に彼の著書(共著・編著を含む)はそのほとんどが平和主義をテーマとするものとなった。

 本書は、『戦争放棄と平和的生存権』及び長沼事件をめぐる諸論稿をまとめた『長沼裁判における憲法の軍縮平和主義』(日本評論社、1975年)とともに形成されることになる三部作の第一作目であり、「戦後わが国における憲法の平和主義の研究史上」に打ち建てられた「一大モニュメント」である*9と同時に、深瀬が「平和のために闘う学者として確固たる高い評価」*10を得るに至る一里塚としても重要な位置を占める著作である。9条をめぐる言説の戯画化が著しい中、「平和に対する求道者的姿勢で一貫された」本書*11を読み直すことは、いまや記憶も薄れつつある戦後憲法学における平和主義の原点を改めて見つめ直す契機になるだろう。

二 本書の内容

1.いくつかの感想

 本書は、恵庭事件に関する深瀬自身の諸論考をまとめた第一部(論文篇)と、本件訴訟に関する資料をまとめた第二部(資料篇)から構成されている。もっとも、第二部にも深瀬の手になる「解説」「公判速報」及び「公判レポート」が収録されてはいるが、ここでは専ら第一部の諸論考に焦点を当てて、「どんな経緯と結果になるか全くわからない急迫した実践課題に直面しつつ、模索・苦悩し判断・行動してきた実践的研究の記録」(「まえおき」2頁)を読み解いていきたい。とはいえ、本連載の読者に恵庭事件を知らない人はいないであろうから、事件や判決についての詳細な紹介は避け、あまり授業や教科書では取り扱われないような事実や視点を中心に、本書を読んで気になったところを思いつくままに以下4点ほどにまとめてみよう。

(1)本件事案の特質

 もちろん本件は、被告人である野崎兄弟ら野崎一家と自衛隊との紛争に端を発したものであるが、第一義的には野崎一家の「生活権」が自衛隊によって侵害された事案であるという認識が示されていた。「その争点は、無補償で一方的に犠牲を強制する自衛隊の不条理な行為は、憲法の生活権(財産権・29条、生存権・25条)の保障が生きているかぎり、無効とされねばならないということに尽きる」(6頁)。しかし弁護団は、無罪判決を獲得するために、自衛隊法の違憲性を真正面から主張するという訴訟戦略を選んだ。ここではその是非は措いて*12、深瀬が「従来我国において最も法的矛盾が顕著で重大であるにもかかわらず、その解決の微妙・困難性のゆえに引き延ばされてきた重大問題について、軍事体制強化の必要性の側と、人権確保の要求の側とが、境界線上で接触衝突し、火花が散ったのが本件だと解」していた(22-23頁)という点のみを確認しておきたい。

 なぜなら、ここで言われている「重大問題」のうち「より根本的な問題点は、いうまでもなく自衛隊が憲法9条に違反するか否かである」(23頁)が、そうであるとすれば、結局のところ、「人権」論は「平和」の問題へと吸収されることになるようにも思われるからである。「本件はさらに、被告野崎兄弟の人権が、この法廷にいない国民すべての平和的な人権に関連し、憲法の平和主義の運命を左右する憲法的大事件であるといわざるをえない」(74頁)。おそらくその背景には、「第九条の徹底的な平和状態を確保し享受する権利は、第三章すべての人権の基礎であるとともに『すべての人権中第一のもの』であるという」理解(145-146頁)があるのであろう。

(2)登場人物

 まず本件における一方の主人公である野崎兄弟であるが、本書において彼らは、「封建的・屈従的意識による泣き寝入りにおわる」ような「旧い型の農民」(54頁)とは一線を画する存在として描かれているという点に注意しなければならない。「野崎氏は、父親健之助氏(札幌農学校出身)をはじめとして夫人・二男・三女いずれも教育を受けた知識人であり同時に独立自営農民である。その意識・発想・思考力の近代的合理性および正義感にもとづく行動力の強靭さにおいてまれにみる健全な存在といえよう。(中略)憲法12条がいう基本的人権を『不断の努力によって保持』してゆく意識と姿勢をもった、いわば新憲法が期待する人間像のあらわれといってよいような人達である」(82頁)。

 とりわけ、「恵庭町〔当時。現恵庭市〕や千歳市の住民の大多数は、自衛隊に依存して生活を維持せざるをえない状態にあり」(82頁)、それゆえ野崎一家は「自衛隊の町恵庭で孤立を余儀なくされる」(87頁)ことになるが、北大農学部を卒業した野崎兄弟のうちに「力強く、正義のための不屈の闘志となって生きている」「北大の『クラーク精神』」(207頁)によって、「圧倒的な軍事的勢力(国家権力)およびその協力者達」(82頁)に立ち向かっていったというのが、本書が描くストーリーであった。

 そのため、野崎兄弟にとっての「敵」は、必ずしも自衛隊だけではない。もちろん、本書が報告する自衛隊の不誠実な対応――「自衛隊内の管理・指導が徹底せず、口頭・書面の紳士協定があまりにも破棄され期待が裏切られすぎた」(87頁)――には目に余るものがあるが、それは自衛隊の「巨悪」ぶりを明らかにしているというよりは、むしろ彼らがどうしようもない「小物」であるというイメージを読者に抱かせているように思われる。そして、その「小物」ぶりにおいて自衛隊以上に野崎兄弟と対比させられているのは、「素朴・善良であるが根強い権力依存意識・眼先きの利益感覚しかない農民」(82頁)、「因襲にとらわれた矮小な伝統的日本農民」(207頁)なのではないだろうか。野崎一家が孤立を余儀なくされているのも、「騒音による被害や苦痛は現存するにもかかわらず、にらまれることを恐れて苦情を正々堂々と訴えない」どころか彼らを「中傷する人すら少なくない」基地周辺住民たちに囲まれていたからである(86-87頁)。それゆえ本件は、そのような封建的・前近代的な日本社会に対する、近代的エートスを備えた「知識人」による「権利のための闘争」(86頁)でもあったといえよう*13

(3)憲法9条解釈論

 もちろん深瀬ら弁護側は自衛隊違憲論を展開するのであるが、合憲論を主張する検察側が「憲法第九条と自衛隊法の法文の文字の形式論(文)理的操作ないし抽象的概念論のみで自衛隊法の合憲性を割り切ろうと」するのに対し、弁護側は「憲法適合性に関する厳正・客観的な判断は関連する広汎な歴史的・社会的憲法事実(国際的・国内的)とりわけ自衛隊の実体を全面的に究明することなしには不可能であることを強調してやまないのであ」り(108-109頁)、そのため、当時芦部信喜らによって紹介され始めていた立法事実論を駆使しているのも本書の特色であろう。こうして「皮相的で安易な既成の概念法学的方法」(37頁)が排除される一方で、政治的マニフェスト説を唱える高柳賢三の「社会学的解釈」方法も立法者の制定意思を軽視するために用いられている点などが批判され、「人権保障と立憲主義に直接関係するものとして」(188頁)、あくまで憲法9条は法的規定であって統治行為論によって判断を回避することも許されないと主張される。

 このように検察側と弁護側は憲法9条の解釈方法論において対立していたのであるが、しかし両者の対立点は「そのような解釈方法論の今一つ根底の部分にもあるのではないか」と深瀬は言う。「すなわち、日本国憲法が核時代の戦争の惨禍を再び国民に蒙らしめることのないようにする固い決意のもとに、世界史上未だかつてない無軍備平和主義の規定を設けたこと、そしてこの平和主義を単なる外交上の指針や法理念にとどめることなく、その保護を国民の権利として国家権力に対して争いうる法規範として設定したこと、という憲法の特殊な意義を、どれだけ現実に有効なものとし・法的に堅持しようとしているかという、憲法感覚ないし憲法解釈の基本的姿勢にかかわる問題があると思うのであります」(162-163頁)。もとより、かかる「憲法感覚ないし価値判断の正当性を、客観的・実証的・科学的に明らかにする方法として、われわれの法解釈方法論を主張しているのだ」(163頁)と述べているように、深瀬において、価値判断と法解釈方法論とは密接に関連していたものと思われる。

(4)札幌地裁判決

 周知のとおり、本件判決が憲法判断を回避したことに対し学界からは批判が相次いだところであるが、深瀬の裁判官たちに対する眼差しは存外に温かい。もちろん、事前に「自衛隊法の違憲性についての真正面からの判断が下される蓋然性がきわめて強い」(439頁)と予測していた深瀬が判決を前にして「きわめてがっかりしたことはたしかである」(225頁)。けれども、無罪判決が確定したことによって「恵庭事件における野崎兄弟の人権と平和憲法を守るたたかいは、地裁判決によって、最低限の、しかし最も大切な点において勝利をすら与えられた。がっかりしたのはまちがいであった」(231頁)。なぜなら、「日本国民は、本件無罪判決によって、一般市民法秩序の要請である刑法以上に、重くきびしい制裁と強権を科する自衛隊法の軍事的目的によって、憲法の保障する『平和のうちに生存する権利』を剥奪侵害されることのない、判例法的原則をみることができた」からである(248頁)。このように論じる本書は、判決に窺われる裁判官たちの「動揺と苦悩の跡」(222頁)を何とか掬い取ろうとしているようにも思われる。

2.学者と国民

 「恵庭は今日も眠っていないのだが、国民はめざめているであろうか」(234頁)。

 判決から約二週間後に脱稿された論考を、深瀬はこのような問いかけで締めくくっている。その背景には、「しかし結局、恵庭判決の割り切れなさの根源は、憲法の無軍備平和主義と巨大な再軍備の実定法秩序との間の矛盾――その矛盾に対し無関心・放任・肯認する国民自体の問題――にあるといわねばならない」(252頁)という現状があった。

 深瀬によれば、恵庭事件において日本国民は、「かつてのようにズルズルと政府の既成事実にひきずられ」ることで「再び、最初通常兵器による、最後に核兵器による絶滅的戦争の惨禍を蒙らなければ、自らでは無軍備平和主義を実行できない」のか、それとも、「憲法の無軍備平和主義の生きたリアルな意義を深く再検討し、主権者らしい国民自らの判断と決断によってそれを自らと人類のため主体的に、可能な限りの仕方で実行に移す最後の機会」を活かすのか、という二者択一を迫られていた(198頁)。にもかかわらず、「恵庭事件地裁段階四年間のうち、国民一般は眠っていたといってよい」(231頁)。裁判官が最後のところで違憲判決に踏み切れなかったのも「世論の盛り上る支援を感じ取れなかった」(258頁)からではないか、と手厳しい。このような国民意識のありようは、後に、「天皇制的憲法文化」の問題として論じられることになるだろう*14

 だからこそ、憲法学者が国民の覚醒を促さなければならない。「理性と論理と良識を無視した戦力概念が公言されても、なまこの反応ほども示さなくなってしまった国民の意識の鈍磨ぶりに警告を発しなければならぬ、という不幸な課題を法学者は今や負うに至っている」(271頁)、「結局平和的な手段と組織によってしか、平和を確保することはできないのだという核時代の庶民の常識を眼醒めさせ、確信とし、力あらしめるのは、今日の日本の学者・科学者の最大の任務の一つではあるまいか」(276頁)。なぜ深瀬が恵庭事件にここまで没頭したのかという問いに対する答えも、この点に求めることができるように思われる。実際深瀬は、憲法学者も含む知識人を旧約聖書の「予言者=覚醒させる者」に比してもいた。「旧約聖書時代の予言者の真偽は、神の真実・現実に対して国民を眼醒ましめ、その真理に立ちかえらせるものであるか否かで識別された」とすれば、「憲法の無軍備平和主義原則を死文化させあるいは完全に眠り込ませようという企図に対し、憲法学者の多数がその危機を直視するように唱え、その企図をくじくために結集した」ことの「価値と正当性はいささかも減ずることはないと思う」(217頁)。

 もちろん、このような言説には違和感を覚える向きもあろう。しかし、ここにもし我々の心を打つ何かがあるとすれば、それは次に見るような、強烈な宗教的使命感に裏打ちされた敬虔さと真摯さとにほかならないのではないだろうか。

三.北からの平和

 恵庭事件に対する深瀬の思いについては、実際、本書だけでそのすべてが明らかになるわけではない。この点で本書と対をなすのが、「自覚ある主権者たるべき日本国民として、また神の前に日本の社会と歴史の中にあって責任ある応答をなしてゆくべきだと信ずる一団のキリスト者が、『恵庭事件』という裁判を契機として展開した、平和憲法擁護の運動(第一部)と、精神(第二部)と、理論(第三部)の記録」として著された、『平和憲法を守るキリスト者』(新教出版社、1968年)*15である。深瀬はそのうち第二部と第三部とを執筆しているが、とりわけ第二部「平和憲法擁護の精神」は深瀬において学問と信仰とが一体であったことを語って余りあるものとなっており、戦後憲法学のある側面を知る上でも重要な文献であろう

 深瀬は昭和2年に高知県に出生、その後は東京陸軍幼年学校・陸軍予科士官学校・第一高等学校・東京大学法学部と学歴を重ね、北海道大学法経学部(後に法学部)助手を経て、昭和31年に北海道大学法学部助教授に着任した。北大で深瀬と同僚だった五十嵐清は、北大着任の経緯を次のように証言している。

学者として見所は指導教授〔=宮沢俊義〕からしてあるのだが、学校の成績があまり良くなかった。深瀬なんかはなんで悪いのかなと思うのですが。東大ではその頃は助手制度が利用されるようになったかどうか記憶にないのですけれども、東大には残せない。北大には助手のポストが余っているようだから、それを貸してくれないかと。そういうことで、三年たっていい論文を書いたら、当然北大は助教授に採る優先権が、書かなかったら面倒は自分〔=宮沢〕たちの方でみる。こういうことで、深瀬君の方は三年たって大論文を書いて、それで文句なしに北大で採ったのです……*16

 何とも牧歌的な話であるが、ともあれこうして、深瀬は北大法学部憲法講座に迎えられた。もっとも、助手時代は内地研究員として東大の宮沢研究室におり、助教授昇進の翌年には2年余に及ぶ留学に出ているので、彼が札幌に腰を落ち着けるようになったのは昭和35年に入ってからのことではないかと思われる。そして、その3年後、恵庭事件に出会ったのである。

 深瀬にとって、それは「召命」であった――「そもそも一国をつるぎによらず平和的手段によって守るためには、国民の鞏固な平和への意志と不断の監視と平和的な力の結集が必要不可欠であります。しかし、富と権力を握る国内外の力が、今一度の戦争を予想し軍事力によって富もうという政治と産業と教育の既成事実を押しすすめてくると、国民の意志はくじけ、道徳感覚は鈍麻し、結束はみだれるのであります。されど、この鈍麻と乱れの『破れ口』に立ち、つるぎの強化によって滅びに向かう大勢に最後まで抗しうる者は誰か。それは非武装平和主義の深く力強い真理の証人たるべきキリスト者ではありますまいか」。そんな彼らに待っているのは、泰平ムードの下で安逸と惰眠を貪る者たちからの「迫害」である――「かつて予言者が迫害され、真に予言者的だった内村〔鑑三〕や矢内原〔忠雄〕等が非国民呼ばわりされたように、われわれも『共産党のお先棒をかつぐ』アカ呼ばわりをされすらした」。「にもかかわらず」彼らが戦うのは、日本国憲法の無軍備平和主義こそ「神の啓示・めぐみの業」だからである――「それは自衛権確保の手段として軍備と戦争に訴えることなく徹頭徹尾平和的手段による方法であって、遠くイザヤが『つるぎをうちかえてすきとなし再び戦いのことを学ばない』とした道、その正義の大道を進む決意において、神に立ちかえるものである以上、神御自身によって安全保障をしていただける、神の義しき審きに信頼して動ぜざる道である」*17

四 おわりに

 これらの言説にはたしかに宗教的な意匠が凝らされてはいるが、しかしそれを横においたとしても、深瀬が言わんとするところは十分に理解できるであろう。とりわけ、主権者たる国民に対して、平和へのフリーライディングを戒め「平和を産み出す主体」たれと迫る厳しさは、今こそ真剣な再読に値すると筆者(西村)は考えている。「平和はただ夢みエンジョイする(楽しむ)だけではだめだ。平和を正義と両立させつつ確保してゆくためには、戦火によって流す血と涙以上の犠牲を自ら支払う戦いが必要だということが、明らかにされねばならない。(中略)恵庭事件における平和憲法擁護のため集まっている弁護士・被告・学者・支援の人々は、この意味での戦いの一翼を担っている戦士だといえよう」*18

 とはいえ、すぐに気付くように、誰もが野崎兄弟のような「戦士」になれるわけではない。この点、近代立憲主義がキリスト教による精神的基礎によって支えられていたとすれば*19、深瀬の立憲平和主義は、その意味において、まことに幸福な憲法学であった。

 

【2016年6月29日追記】
 本連載第2回「北からの平和」の中で、深瀬忠一を「北大法学部憲法講座初代担当者」と記していましたが、その栄誉に浴するのは昭和28(1953)年3月20日に着任した松岡修太郎であり、その3年後に助教授として採用された深瀬はいわば「二代目」に当たるようです(参照、「法学部 付スラブ研究施設」北海道大学編『北大百年史 部局史』〔ぎょうせい、1980年〕285頁以下)。お詫びして訂正するとともに、貴重なご指摘を賜りました中村睦男先生には、この場を借りて厚く御礼申し上げます。(筆者)

 

*1:日本評論社、1967年発行。以下、「本書」と呼ぶ。

*2:以下、本文中の頁数は全て本書からの引用箇所を示す。

*3:座談会「深瀬忠一教授を囲んで」北大法学論集40巻5・6号下巻(1990年)1414-1415頁。

*4:深瀬忠一「島松演習場事件と違憲問題」世界213号203頁以下。なお同号には、同年5月3日に京都で開催された憲法問題研究会主催の講演会の模様も収録されており(辻清明「ある憲法の運命」、末川博「憲法問題の大衆化」)、その傍らで深瀬の論考に目を留めたという読者も多かったのではないだろうか。

*5:都留重人「論壇時評 上」朝日新聞1963年8月27日。本書13頁は当該記事が掲載された日付を「昭和三十八年八月二日」としているが、これは誤りであろう。

*6:参照、高柳信一「憲法学者の使命と責任」世界236号(1965年)139頁以下。

*7:全国憲法研究会シンポジウム「憲法第九条をめぐる諸問題〔要旨〕」法律時報37巻11号(1965年)64-65頁。

*8:岡本篤尚「『武力なき平和』の憲法政策をめざして」長谷部恭男編『憲法本41』(平凡社、2001年)186頁。

*9:山内敏弘「BOOK REVIEW」法律時報48巻10号(1976年)101頁。

*10:浦田賢治「BOOK REVIEW」法律時報60巻5号(1988年)109頁。

*11:杉原泰雄「一九六七年学界回顧 憲法」法律時報39巻13号(1967年)7頁。

*12:他の戦略の可能性については、参照、蟻川恒正「裁判所と九条」水島朝穂編『立憲的ダイナミズム』(岩波書店、2014年)163頁以下。

*13:この図式は、例えば吉原公一郎「著者への手紙」現代の眼9巻1号(1968年)186頁などに露骨に表れている。

*14:参照、深瀬・前掲『戦争放棄と平和的生存権』382頁以下。

*15:橋本左内との共編。引用は「まえがき」1頁〔深瀬〕。

*16:五十嵐清(語り)『ある比較法学者の歩いた道』(信山社、2015年)110-111頁。

*17:以上、深瀬=橋本編・前掲『平和憲法を守るキリスト者』114頁、163頁、155-156頁〔深瀬〕。

*18:深瀬=橋本編・前掲『平和憲法を守るキリスト者』140-141頁〔深瀬〕。もっとも、これは世界的な軍備撤廃実現のための戦いなのであって、巷間話題の「積極的平和主義」とは似て非なるものである。

*19:参照、石川健治「9条 立憲主義のピース」朝日新聞2016年5月3日。

Copyright © 2016 KOUBUNDOU Publishers Inc.All Rights Reserved.