第4回 学問は「真実」を生命とする――一圓一億『法の解釈と適用』

一 はじめに

1.法解釈論争

 皆さんは、例えば「法学入門」のような授業において、法解釈とは何か、という話を聞いたことがあるだろう。そこでは例えば、法解釈には法創造的な側面が含まれていること、しかしそれは全くの自由であるわけではなく一定の限界を有することなどが講義されるであろう。実は、現在では当然のようにも思われるこのような解釈観が我が国の法学界に受け入れられるようになったきっかけは、「法解釈論争」と呼ばれる1950年代から60年代にかけての論争であった。そしてその先鞭を付けたのが、民法学者の来栖三郎であり、彼の一連の業績の中でもひときわ歴史に燦然と輝いているのが、昭和28(1953)年の私法学会における報告・「法の解釈と法律家」であろう。こうして法学界では、数年間にわたり、法解釈論争が戦われることとなったのである*1

 憲法学界もまた、この法解釈論争と無縁ではなかった。試みに――本連載で何度もご登場願っている――佐藤功の執筆による『公法研究』誌上の「学界展望」を繙くと、早くも昭和28年には憲法解釈学にとどまらない「社会科学としての憲法学」という立場への言及が登場し、同30(1955)年から32(1957)年にかけて「憲法学の課題と方法」という独立の項目が立てられるようになる。その翌年(1958年)には一旦「〔憲法学の課題と方法に関する論考が多いという〕特徴は、今年度においてはほとんど見られない」とされるものの、同36(1961)年には「憲法解釈の態度に関するもの」というが立ち、その翌年及び翌々年にも「憲法解釈の課題と方法」という項目が立てられている*2。このように、1950年代から60年代にかけて――消長はあったものの――ほぼ一貫して、憲法解釈方法論は憲法学界における主要論点であり続けた*3

 そして、とりわけ論争初期に活躍したのが、鈴木安蔵・長谷川正安・小嶋和司・鵜飼信成といった錚々たる面々であり、それら個性的な登場人物たちの中でもひときわ異彩を放っていたのが、本日の主役・一圓一億である。 

2.人と作品

 一圓一億(いちえん・かずお、1911-1987)。彼については、インパクトのある名前とは裏腹に、その業績が広く知られているとは必ずしも言えないであろう。そこでここでは、彼の人と作品について簡単に振り返っておきたい*4

 一圓は明治44(1911)年に高知県に出生。昭和9(1934)年に京都帝国大学法学部を卒業したのち、合名会社尼崎汽船部に入社するも病気を転機として辞職。還暦記念論文集の略歴によれば、同11(1936)年から2年間「京都の田村徳治博士の山荘に居住し、哲学、法哲学、政治学、行政学等の指導を受ける」とある。なお、田村徳治(1886-1958)は京都帝国大学法学部の初代行政学講座担当者であるが、同8(1933)年の滝川事件によって京都帝大を去り、この時期は関西学院大学法文学部に勤務していた。話を一圓に戻すと、その後、日本通運株式会社勤務を経て、同18(1943)年に、上海に開設されていた私立大学である東亜同文書院大学講師に着任し(後に助教授)、学究生活に入ることとなる。担当は憲法学であった。終戦に伴い同大学が廃校になると、一圓は愛知大学の設立に参加し、やはり憲法学担当として同22(1947)年に同大学講師に着任する(後に教授)。さらに同27(1952)年には関西学院大学法学部に憲法担当の教授として迎えられ、同52(1977)年まで同大学に勤務。その間、同30(1955)年から20年間にわたり日本公法学会の理事を務めた。同62(1987)年死去。

 このように、学究生活に入る前は必ずしも憲法学を専攻していたわけではない一圓であるが、大学で憲法を講じていた彼の業績はもちろん憲法関係のものに集中している。具体的には、天皇制・憲法改正の法理・9条・違憲審査制といったトピックが中心的に取り扱われており、その主なものは論文集である『憲法基本問題の研究』(弘文堂、1959年)や『憲法の基本問題』(有信堂、1971年)などに収められている。これらの著作は彼の関心の所在を一望するにも便利であるので、興味のある読者は図書館等で手に取ってみるとよいだろう。

 しかし一圓の代表作として一冊を挙げるとすれば、必ずしも憲法学プロパーというわけではないけれども、やはり『法の解釈と適用』(有斐閣、1958年、以下「本書」という)であると思われる。本書のもとになった論文は関西学院大学法学部の紀要である『法と政治』に連載されていたものであるが(6巻3号―7巻2号、1955―1956年)、一圓は昭和31(1956)年にそれを主論文として同大学から博士号を授与されており(副論文は「憲法における天皇の地位」法経論集〔愛知大学〕創刊号〔1949年〕所収。前掲『憲法基本問題の研究』にも「若干の補正」を加えて収録)、したがって、本書はいわば彼の学位取得論文に当たるものである。本書を一圓の代表作と評する理由としては、それで十分であろう。

二 本書の内容

 本書は、一般になじみのない用語法や思考の筋道を採っているということもあり、必ずしも頭に入りやすい内容ではない。そこで以下では、やや詳細に本書の内容を追跡することにする*5

1.序説

 本書は「はしがき」や「索引」を除くと全4章から構成されているところ、まず第1章・「序説」では、先に見た来栖への批判を取っ掛かりとして自らの問題意識を敷衍している。すなわち、来栖は例えば「法規範を実定法の規定からの論理的演繹によってでなく、現実の社会関係の観察・分析によってその中から汲みとるべきである」が「社会の事象より規範を導き出すといっても、矢張り客観的に正しい唯一の法規範が社会の事象のうちに内在していると前提しそれを認識のみによって探し求めるというだけでなくて、そこには自分の価値判断によって望ましいと考える法規範を具体的につくり出そうとする意欲が加わっている」ことに注意すべきであると言い*6、またあるところでは法の解釈について「正に実践であり、政治である」・「ある限度でイデオロギッシュであらざるを得ない」とも述べていた*7。しかし、一圓によれば、このような来栖の言説には解釈概念の不当な拡大と、解釈と適用との混同があるという(「第一 若干の論点」)。そして、そのような欠点は、概念法学と自由法学という法の解釈適用の方法に関する二学派にも同様に妥当する(「第二 法の解釈適用の方法に関する学説」)。その結果、まず解釈と適用とを峻別したうえで、「解釈は、いかなる作業であり、いかなる方法でこれをなすべきであるか」、「適用は、いかなる作業であるか、そして適用において、実際に適用さるべき『法』はいかなるものであるか」、「解釈される『法』、それによって発見される『法』は、いかなる実体をもつものであるか」といった問題を解くことが、本書の課題とされるのである(「第三 あとがき」)。

2.法の解釈

 そこで第2章・「法の解釈」へと入っていくわけであるが、そこでは「法の解釈適用をなすに当って、まず問題となるのは、『法』とは何かということである」として、「法なるものの実体」が考察される(「第一 法なるものの実体」)。この点、「一般に法といわれているものの実体について検討を加え」た本書によれば、「人々が他に対して守るべきもの(相互規範……)であり、かつ、必ず従われねばならないもの(必従規範……)」が広義における「法」であり、そのような性質をもつものとして、「法規範」・「社会的法規範意識」・「制規」という3種のものがあるとされる*8。そこで次に、これらがそれぞれどのような実体であるのかが問題となるが、この点について本書は次のように要約する。

制規の実体は、意思表示であり、規則である。それは、人間の作品であり、「物」たる在り方をする存在である。これに対して、社会的法規範意識(制定法、慣習法、条理法)は、規範意識であり、「心」たる在り方をする存在である。この点において、両者は異る。しかし両者は、ともに歴史的社会的生成に属し、歴史的社会的現実といわれ得るものであり、ともに実有〔=Sein〕の世界に属する。これに対して、法規範(理性法)は、その実体において、規範であるから、実有ではなくて、当為〔=Sollen〕の世界に属する。それは、時代と場所との相違に従って別個に想定せられるべきものであり、時代と場所との制約の下に変遷するものではなく、かくて、歴史的社会的現実であるとは、いわれ得ない。制規も社会的法規範意識も、ともに人間によって気づかれたものであるが、法規範(理性法)は、人間によって気づかれると否とにかかわらず存在する、と考えられるものである。〔改行〕これらの点において、三者は、その存在論的性格を異にする。(76-77頁)

 続いて、「法の解釈とは、いかなる性質の作業であるか」が検討される(「第二 法の解釈の実質」)。この点、一般に承認されているのは「解釈とは、表現ないし表出の意味内容の確立である」という規定であるが、ここで「意味」とは、表現ないし表出の内面的意味(精神、真意など)でなければならず、したがって「解釈とは、表現ないし表出を直接対象とし、その寓する意味(精神)を終局対象とする一つの精神作用である」。しかしながら、表現ないし表出に内含されている意思、意図、真意といった他人の心裡は、自己の心の認識によって推断し得るにすぎない。それゆえ解釈とは、「自己の体験の内部知覚から推断して、当該の表現ないし表出に寄せられた意味(精神、真意)をいい当てようとするものである」。

かくて解釈は、しばしば拡充(Ausbreitung)の義をもつAuslegungであるともいわれる。しかしそれは、自己の体験ないし内部知覚に由来する拡充でなければならない。かくて、解釈には創造性が存するといわれ得ないではないが、しかしそれは、飽くまでも、表現もしくは表出に即してなされねばならないものである。決して、それらから、自由無軌道であるべきものではない。物象を通じて心象をいい当てるには、飛躍があり、推断はまぬがれ得ないにしても、同一の思想感情が、同一の表情をもたらし、その表情方法も、社会的約束、個人的習慣などによっておのずから一定するから、表現もしくは表出を通じてそれの内含する心象を推断することは、決して根拠のないことではない。(93頁)

 「かくて解釈……は、もしそれが所与の物象――表現ないし表出――に即して行われる限りは、必ずや正確を期し得るものでなければならない」。これに対し、「解釈とは、解釈者の主観的価値判断を加えて、対象に意味を付することだ」という「異説」があるが、しかしかかる考え方によれば「一致した結論を期待し得べくもない」のであって、「解釈の真偽について争うことは、はじめから、無意味」になってしまう。したがって、そのような「異説」は解釈ではないということになる。

 ところで、先述のように、広義の「法」には3種のものがあるところ、一般に法解釈学が直接の対象とするのは制規であると考えられている。そこで、「解釈の直接対象としての制規の実体と本質」及び「解釈の終局対象としての、制規に寄せられた意味」が問題となるところ、とりわけ後者については種々の考え方があるが、本書の結論は次の通りである。

制規の解釈が法学であるためには、制規は、その意味内容において、法的意思が対象とされなければならない。そうでなければ、その解釈は、法学とはなり得ない。そしてつぎに、制規に宿された何びとの意思か、ということについては、いわゆる法律意思(より正確には、制規意思)が対象とされなければならない。(114頁)

 すなわち、制規の解釈における対象は、立法者意思や社会意思・社会意識や具体的妥当性ではなく、制規自体が独自にもつと見られる意思でなければならないのである(「第三 制規の解釈における対象」)。

 第2章の最後では、制規の解釈方法について検討が加えられる(「第四 制規の解釈の方法」)。具体的には、「制規の発布された当時の言語の意味によって解釈すべきであること」、「法の論理による解釈の必要」や「制規に即して概念構成をなすことの必要」などが唱えられているが、ここで重要なことは、「制規の正しい解釈は、ただ一つでなければならない」という「制規の解釈の一義性」である。なぜなら、制規の解釈は――制規の内含する事実を見るものである以上――事実認識であり、したがって、解釈法学は科学に属するからである。

もしも解釈者が、自己の作業が事実認識であることに想至し、科学的態度をもって、論理に従ってのみ――もちろん、ここに論理というのは、事実に即するかどうかを検証する手段であるが、――真偽を定めようとするなら、たとえ各人の間に解釈の多様性はあっても、やがては一つの結論に落ちつくことは、可能である。〔改行〕解釈の多様性の現存のなかで、その真実性を測る規準は、このような意味における論理性でなければならない。(157頁)

 ここに、解釈法学を政治的イデオロギーや主観的価値感情から解放しようという一圓の意図は明らかであろう。

3.法の適用

 続いて、第3章・「法の適用」である。この点、従来の法律学は、解釈の概念については精密な議論を行ってきたが、適用のそれについてはほとんど何等の規定も与えていない。そこで本書は、まず「いったい適用とは何か、法の適用とは何か、これらの概念について検討を加える」ことになる(「第一 法の適用の概念と法の適用の過程」)。

 この点、適用とは事件の処理の一態様であるが、同時に「それは、結果の良好への強い意欲をもち、特別に慎重に考慮してなされる事件の処理」であり、この目的意識において適用作業は解釈作業と区別されることになる。「解釈が没目的的であり純粋認識的な精神活動であるに対して、適用は、目的的活動であり、実践的活動である」。とはいえ、適用は何らかの一般的抽象的な規準をより個別的具体的な案件にあくまで「正確に」当てはめて処理することであり、「法の適用に際して、適用さるべき制規の意味内容のままを正確に適用すると結果のわるいことの生ずる場合に、その制規の意味内容に、ある適用目的の下に修正を加え、その修正を加えて作られた規準を適用」することは制規の正しい意味での適用ではなく、さりとて解釈の作業でもなく、「制規の工作」すなわち「法の適用馴致作業」であるという。

すなわち、解釈にあっては、法(制規)の意味内容の確立という精神活動であり、法の適用馴致作業は、適用の規準を確立するために工夫するところの精神活動であるに対して、法の適用にあっては、確立された規準を用いて、問題の具体的事件をそれに当てはめて処理するという精神活動である、ということである。あたかもこのように、法の解釈も、法の適用馴致作業も、法の適用も、等しく精神活動として問題とせられ得るがゆえに、ここに、人々がこれらを混同して、そのすべてを解釈であるとなす原因の一半が、存するのである。しかしながら、右の三者は、これを厳格に区別すべきものであり、制規の解釈においては、目的は全く介入せしむべきものではないけれども、制規の工作(法の適用馴致作業)および法の適用にあっては、その適用目的によって指導せられるものである。(184-185頁)

 ここまで述べてきたように、適用は、一方で「あらかじめ確立された規則(制規)には、準拠しなければなら」ず、他方で「最良の結果を得ること」をその本来目的としている。そこで、「制規が最適であると考えたところと、こんにちの現実が最適であると考えるところが……相反するに至る場合が生ずる」ため、このような場合における法の適用の原理が問題となる。この点について一圓は、そのような法の適用の原理は「一般的な原則として確立すべきであるし、また、そのように確立することができる」と言うが、その「一般的な原則」として求められる「適用の最終的な準拠に関する原則は、制規や社会的法規範の主張を超えた……理性法の立場でなければならない」とされる(「第二 法の適用の方法に関する論点と法の適用方法の原理としての理性法」)。

 それでは、「制規の適用主張、社会的法規範意識の適用主張、狭い視野における適用理性法の適用主張のうち、適用について最終的な権利を有するものは何か」という問題に解決を与える理性法――正確には、「広い視野における適用理性法」――の適用原則とはいかなるものであろうか。結論から言えば、それは、制規の適用主張と狭い視野における適用理性法の適用主張とが異なる場合であれ、制規の適用主張と社会的法規範意識の適用主張とが異なる場合であれ、制規の適用主張が優先されねばならないというものにほかならない。なぜなら、「社会的法規範意識や理性法にその解決を求めるよりも、制規にその解決を求めることの方が、より安心であり、より合理的であると考えられる」からである。もっとも、「制規の規定が適用されねばならないというのは、結論としてはたしかに純理ではあるが、しかしそれでは、わるい結果の生ずる場合がある。わるい結果は、本来、事件の処理が、従って法の適用が、最もいみきらうところである。そこで、いま一度そこに、何らかの工夫をなす余地は存しないのかという要求」はなお残り得る。しかし一圓は、その場合でも「制規はこれを忠実に解釈し、その結果がわるくとも、そのままにこれを適用せよ」というのが法の適用のあるべき方法であると主張する(「第三 法の適用の原則(一)」)*9

 もとより一圓は、もし「制規の存在する場合において、制規の忠実な解釈の結果を適用することが法の適用であるとするならば、制規の解釈の結果を施して不都合の存する場合」に、制規を無視して事件の処理をなすことが好ましいとしてこれに依るべき場合があることを認める。しかし、それはあくまでも法外の処理であり、決して法の適用とされてはならない(「第五 結語」)。

このように、制規を無視して事件の処理をなすときには、これを制規の名においてごま化すべきではなく、制規を無視して、理性法を適用するものであることを明らさまに公表し、そしてその理由を付すべきである。制規の適用に当っては、何ゆえに制規を適用するかの理由を付する必要はない。しかしながら、これを無視して、法外の処理をなす場合には、その理由を付する責任が、負担されなければならない。(252頁)

 なお、本書はこの後に続く第4章・「余論」によって締め括られることとなるが、その内容については次に紹介する。

三 本書の思想

1.法的安定性の要求

 一圓は本書の「はしがき」で、「この書の成るについては、多くの人々からの恩恵を得ているが、なかでも法学博士田村徳治先生の学恩を深く感ずる。先生とは必ずしも結論を同じくしないところもあるが、わたくしの考え方の基礎は、先生の教えによるものである」と感謝の言葉を綴っている。前述のとおり、一圓は行政学者であった田村徳治*10に師事したのであるが、そのいきさつは、「マルクス主義的な実践学生」だった一圓のために「学生運動の保証教授になって下さった縁」に依るようである*11。それはともかく、本書の特徴とも言える独特な用語法や難解な思考法の多くは、一圓がかつて紹介論文を書き*12本書でもたびたび引用されている、田村の『法律体系論(上)(下)』(関西学院大学法政学会、1952―1953年)に依拠していると見ることができよう*13。ここで田村と一圓の比較を行う余裕はないが、一圓自身による田村評は次のようなものであった。

従来の法律学、特に自由法学が制規の解釈と称して、制規そのものでないものを解釈の内容だとして作り上げていることを不実であるとし、そのような仕方が真実を究明すべき学問の要求に合致しないものだとせられるのであります。この点において田村博士の所説は峻厳であります。この点においてその学問的態度の厳正さにうたれる〔の〕であります。しかし制規が単なる目安に過ぎないものだとなし〔、〕法の適用は、制規にこだわらず、固有の意味における法律、特に晩年は理性法を適用すべきだといわれます。この点において、博士の適用論は、結果において、自由法学と同じことになります。唯自由法学の如く、解釈ならざるものを解釈だと称して、ごまかすことをされない点において虚偽が存しないわけです*14。 

 しかし、まさにその適用論において、一圓は田村と袂を分かつことになる。すなわち、田村が法の適用は理性法の適用であると言うのに対し、すでに述べたように一圓は、「忠実に解釈して得られた制規の規定の意味内容のままを適用することが、法の適用のあるべき方法であると考える」のである。その背景には、制規の存在意義に対する一圓の高い評価があった。

制規は完全ではないけれども、しかしその制定に当っては、あらかじめ時間をかけて、多面的な観点から、慎重にその草案を練る余裕が許されている。しかも制規は、制定されると固定するものであり、かつそれは、こんにち通常、文字の形式において表示されているがゆえに、その意味を把捉することは、――もし人々が、かれの主観的意図を遂げようとしてこじつけをなさず、堅白異同の弁をなすことを慎むならば――、前者〔=社会的法規範意識や理性法〕に比して、著しく容易かつ確実であるといわねばならない。〔中略〕だから、社会的法規範意識や理性法にその解決を求めるよりも、制規にその解決を求めることの方が、より安心であり、より合理的であると考えられるものである。〔中略〕制規に対するこのような意義づけは、いわゆる法的安定性(Rechtssicherheit)と呼ばれるものである。が、なおそのほかに、裁判における恣意の介入の排除、公平の要求、合理性の確保などの諸要求が込められているものである。(216-217頁) 

 かかる法的安定性の要求、及びその裏面である裁判の予測可能性の要求に、一圓が制規を高く評価する所以がある。

2.学問としての法学

 そしてこの点は、一圓がなぜ法の解釈適用という問題を論じたのかという問題とも関連するように思われる。すなわち、本書が執筆された背景には次のような切実な問題意識があったのである。

「解釈は何のためにするか? それは適用のためである。適用は何をもってこれをなすか? それは解釈の結果を施すべきである」と、人々はいうであろう。ここから、都合のよい結果を得るように解釈を構成しようという要求が、生じて来るのである。しかもこうした要求が助長されて来ると、「法文はどのようにでも解釈できる。ただ、いかに上手に理屈をつけるかに解釈の問題がある」というように考えられ、遂には、詭弁をさえ弄しかねなくなるのである。〔中略〕そこには、牽強附会と堅白異同の弁が、恥らいもなく横行している。しかもこのような傾向は、保守的な側においても、進歩的な側においても、ひとしく行われている。あえていえば、法学はこんにち、詭弁の学にさえ惰落〔原文ママ〕しているのではないか。〔改行〕学問は、「真実」を生命とする。法学は、このような小手先きの運用技術や詭弁の術から袂別して、峻厳な事実と冷酷なまでの論理に基礎を置く、正々堂々たる学問にまで立ち還えらなければならない。(「はしがき」1-2頁)

 法学は「詭弁の学」ではないのか――これは、研究者であれ実務家であれ、法学を生業としている者であれば一度はぶつかる疑念であろう。実際、例えば軍備に関する政府解釈の変遷のように「制規の解釈を歪曲ないし工作してこれを適用する」ことは行われてきたし、それは実践的立場からしばしば正当化されてもきた。たしかに、本書第4章が述べるように、解釈法学が純粋な科学に属するのに対し、法の適用は実践的作業であり法適用学は運用学である(「第一 解釈法学の科学性の問題と法適用学の作業領域」)。しかし、田村の「学問的態度の厳正さ」に打たれた一圓にとって、法学において「嘘の効用」を認めることなどは許すべからざることであった。

学問の使命は、真実を探求することに存する。そして学問が社会に役立つのは、真実こそが、けっきょくは実践の準拠とさるべきものであるからである。だから仮りに、うそをついてごまかして処理することが正当であるとされても、それをそのまま吐露して、うそをつくことが必要だと、率直にいわねばならない。そうでなければ、それは学問の要求を充たすものではない。歪曲解釈をしながら真正解釈だと称することは、学問の立場からは排斥さるべきであり、そしてそうでなければ、真実は晦冥ならしめられるだけであり、正当な解決を妨げる結果を生ずるだけである。(234-235頁)

 このように、本書は「詭弁の学」と蔑まれてきた法学を「真実」を生命とする学問へと脱皮させるための挑戦だったのである。

3.理論と実践

 以上のように一圓は、法の解釈及び法の適用についてかなり厳格な態度を要求する。その結果、「法の解釈適用における理論と実践」という問題が生じるという(「第二 法の解釈適用における理論と実践」)。すなわち、「元来制規は、常に良好であるとはいえない。自己の世界観や人生観と合致しない場合も、少からず存するのである。しかも制規を正直に解釈してその結果を披露するならば、それは自己のイデオロギーに反するような適用を促すことになる場合も生じはしないか」、しかしそうであるとすれば、その解釈者は「少くとも国民の一人としては、みずからの作業に堪え難い味気なさと、物足りなさとを感ぜずにおられるであろうか」という問題である。

解釈が、たとえ一義的客観的に確定され得るとしても、その解釈の結果が、自己を不当に圧迫し、ないしは、国家および国民を誤る不良の内容のものである場合には、解釈者は、たしかに満ち足りない気持に襲われざるを得ないであろう。解釈者は、解釈者であると同時に、人間であり、国民の一人である。かれは、自己に対する不当な圧迫を排除しようと欲し、ないしは国家および国民の利益を念願し、その不利益を阻止しようという念願をもっている筈である。かれは、このような意味において、実践者でもあるのである。(265頁)

 たしかに、このような実践者としての心裡に立ち入ってみれば、解釈を歪曲しようとすることは「人情の自然」であるかもしれない。「しかしながら、いやしくも解釈を標榜する限りは、それは、純正な解釈でなければならない。制規を補修工作して、それを制規の解釈だと主張することは、虚偽であり、不実である。真実の探究を目的とすべき学問の立場からは、決して許さるべきことではない」と一圓は繰り返す。

だから、解釈者が、もしもその解釈の結果が行われて不都合であると思うときには、かれは、その発表の義務のないときにはその解釈を披露しないか、もしくは、積極的にその制規の不良を唱えて改正を促すか、さらには、解釈の結果を適用すべきではなく、これを無視して処理すべきであると主張するのが、正当である。(268頁)

 かかる主張に賛同するかはともかく、あなたが教室や教科書の中で繰り広げられている法解釈という営みにふと空虚さを覚えたとき、その同じ問題と格闘した先達が残した言葉を思い出してみるのもよいかもしれない――「学問は『真実』を生命とする」。

*1:参照、南野森「憲法・憲法解釈・憲法学」安西文雄ほか『憲法学の現代的論点〔第2版〕』(有斐閣、2009年)5-7頁。

*2:以上、公法研究9号(1953年)―25号(1963年)を参照。

*3:概観としては、論争当事者でもあった長谷川正安による『法学論争史』(学陽書房、1976年)110頁以下が便利であろう。

*4:参照、「一圓一億先生略歴」一圓一億博士還暦記念論文集『憲法と環境問題』(中央書房、1976年)227頁以下。簡単には、「一圓一億教授略歴」法と政治28巻3=4号(1978年)15-16頁がある。

*5:なお、本文中の頁数は全て本書からの引用であるが、本記事では煩雑を避けるために頁数を省略した箇所も少なくない。読者のご寛恕を乞う次第である。

*6:来栖三郎「法の解釈と法律家」私法11号(1954年)23頁。

*7:来栖三郎「法の解釈適用と法の遵守(1)」法学協会雑誌68巻5号(1950年)32頁、33-34頁。

*8:本書によれば、「法規範」とは「法たる規範」を意味し、理性法・自然法・条理などを指す。また「社会的法規範意識」とは「法規範であるとの、社会意識」を意味し、制定法・慣習法・条理法・実定法などを指す。さらに「制規」とは、「制定者によって、覊束的意義をもつものであるとして表出された、意思表示」を意味し、法規・法典・条文などを指す。

*9:他方で、「制規の存在しない範囲における法の適用の原則は……適用の結果に対して社会的法規範意識の支持が得られる限度において、理性法を実現するということでなければならない」(「第四 法の適用の原則(二)」)。

*10:田村の独創的な行政学については、長濱政壽「田村博士の『行政学』」法と政治10巻4号(1959年)191頁以下、吉富重夫「田村徳治博士の行政学」年報行政研究10号(1973年)297頁以下、等を参照。

*11:一圓一億「学問と教育の原点を洗う」日本法政学会法政論叢22号(1986年)11頁。

*12:一圓一億「紹介」法と政治5巻2号(1954年)109頁以下。

*13:もっとも、一圓はその後「唯物史観の立場を正しいと思うように」なり、その思想的立場は「故田村博士と根本的に異なるようになった」が(一圓一億「憲法学の基礎問題」同編『憲法』〔中央書房、1975年〕92頁)、それについては割愛する。

*14:一圓一億「田村博士の学問と法律学」法と政治10巻4号(1959年)189頁。

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